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10万本の十字架が創る丘

最終更新: 4月1日

世界遺産"十字架の丘"



神秘的な外観と亡霊の目撃例


リトアニア北部シャウレイの町から11kmほど離れた場所にある数千もの十字架が掛けられた古びた土の山。「十字架の丘」として知られその背景には戦争と反乱が絡んだ複雑な物語があり、古くからの伝説や一度見たら忘れられないビジュアルがその丘を取り囲んでいます。そしてその正確な起源は今日も謎のままでなのです。


伝説1「教会を襲った嵐と雷」


「その丘にはたくさんの秘密が存在する」

地元のアーティストで歴史家でもあるヴィリウス・プロナス氏は言います。言い伝えによると丘にはかつて教会があり、嵐と落雷が教会を打ち暴風雨で中の人は生き埋めとなってしましました。日の出頃に丘のふもとで修道士の亡霊が列をなしているのが見えることがあり、神秘的な外観や亡霊の目撃例はその丘の歴史の一部となりました。


伝説2「戦争に倒れた勇敢な戦士たち」


1300年代初頭から伝わるもう一つの伝説があります。その丘はリトアニア大公国時代の国家であったサモギティア地方(ジェマイティヤ)の王族が所有する木造の城の教壇でしたが、1348年にリヴォニア帯剣騎士団(現在のラトビア、エストニア地方のキリスト教を布教する騎士団)によって破壊されてしまい、生き残ったサモギティアの人々は殺された仲間を積み上げて埋めたと言われています。

丘の形状をしているのはそのためで、夜になると命を落とした勇敢な戦士たちの魂が丘に出没すると言われています。


伝説3「娘の病を治した十字架」


諸説ある十字架の丘の起源にまつわる伝説の中で最も有名なのは、重症の病に倒れた娘に絶望した父の物語でしょう。

死が迫る少女が横たわるベッドで父は女性の幻を見て木の十字架を作って近くの丘に供えれば娘の病が治ると告げられ、必死の思いで木の十字架を掘って丘へと急ぎました。家に戻ると娘はドアの前で父を迎え病は完全に回復していたのです。それ以降、人々は祈りが届くようにとその丘に十字架を置くようになりました。


十字架に込められた「反抗」の想い


十字架が置かれる理由は前向きなものだけではなく、中世時代のドイツ十字軍による攻撃、19世紀のロシア皇帝アレクサンドル2世に対するリトアニア人の暴動、そしてソビエト連邦による支配、リトアニアが何度となく直面してきた脅威へ静かに反抗の意思を示す者もいます。

ソ連政府は1960年代から1970年代にかけて何度となく十字架の丘を平らにしようと試みました。ブルドーザーで丘を潰して十字架を焼き払い金属や石の類は廃棄したり他の建築物に使用し、丘に十字架を持ってきたものは罰金を払わされ投獄までされたのです。

しかし、宗教抑圧に対する反抗として十字架は真夜中に丘に供えられ増える一方でした。そしてソ連崩壊から25年以上たった今もなお十字架は立ち続けているのです。


宗教の垣根を超えた場所


今では十字架の丘は全ての宗派の巡礼者を惹きつける場所でもあります。キリスト教の十字架がユダヤ教の一節やイスラム教の聖典コーランから引用された彫刻物と並んで立っているのです。

「十字架の丘は誰のものでもなく皆のもの。教会であろうと政府であろうとその権利を主張することはできません。人々がここに十字架を捧げに来るのは誰かに言われたからではなく、皆が自発的にそうしているからなのです。」とプロナス氏は言います。

シャウレイ自治体と地元のフランシスコ修道士によって最低限の管理がなされている十字架の丘は、現在では10万以上の十字架とその他宗教に関係する供え物で埋め尽くされその数は常に増え続けています。

「ある人にとって十字架の丘とは祈祷の場所、またある人にとっては暗い時代に灯った反抗の象徴、そしてまたある人にとっては退屈な日常にもたらされた非日常的な体験であり、そのいずれの感じ方も間違いではないのです。」




2017年10月28日

BBC By エグレ・ゲルライティテ

引用元:"Lithuania's miraculous hill of 100,000 crosses"

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